「華展 Installation Art 柿崎順一」 展

柿崎順一の華展



を見る為に


長野へ出かけた。



会場の笹屋ホテルまでは車で二時間程である、別邸の豊年虫は遠藤新の設計という程度は知っていたが、想像を超える数寄屋造り建築であった。


専門のコンシェルジュがいて、もてなしが行き届いている、まず、中庭に広がる池に浮かぶなんとも異様で巨大な塊が目に入る。夥しい数の錦鯉が優雅に泳ぐ水面はそれだけでも十分な美しさであろうに、何千枚ものカーネーション花弁の塊が異様な美しさと存在感を放っている、毎日のように降る雨がその花弁に潤いを与え、熟々とした印象を増している。しばしの間、柿崎順一のインスタレーションの世界に引き込まれ時間を忘れかけたが、更に豊年虫の奥深くへと足を進ませることとする。


薄明かりに照らされた奥ゆかしき館内には、いたる場所に15作程の印象深い作品が展示されていて、その迫力と不思議な美しさにさらに圧倒される。特筆すべきはその最も奥の中庭にひっそりとインスタレーションされた彫刻作品であろう・・・この庭は非常に狭い庭で館内の通路が全面ガラスで作られており、まるでその窓枠が絵画のフレームのように風景を切り取って見せてくれる。この庭に柿崎の花の彫刻はひっそりとインスタレーションされているのだが、大きな違和感と不調和をもたらす一方で、実に自然に調和して見えてくるのだ。


私は柿崎の花を美術館でしか見たことがなかった。
柿崎の花は美術館にあるものと勝手に解釈していた自分には新鮮な驚きがあった。よく考えれば花は美術館に活けるものではないし、すべての美術も芸術も本来、美術館のものではないのだ。柿崎の華には血と死があった、そしてそれは恐ろしいほどの美しさと恐ろしさを孕んでいた。それが生きるということなのだろうか。